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老境の武道 第六弾 双葉山定次

6月24日
読了時間: 3分

老境の武道 第六弾

双葉山定次

「未だ木鶏たりえず」

武道を学ぶ者なら、一度は耳にしたことがある言葉がある。

「未だ木鶏たりえず」

私はこの言葉ほど、老境の本質を表した言葉を知らない。

双葉山定次。

昭和の大横綱である。

六十九連勝。

いまなお破られていない大記録を打ち立てた伝説の力士だ。

現代なら国民的英雄である。

いや、神様と呼ばれても不思議ではない。

だが、双葉山は違った。

連勝が六十九で止まった時、多くの人々は失望した。

しかし本人が残した言葉は意外なものだった。

「未だ木鶏たりえず」

木鶏とは中国の故事に出てくる闘鶏である。

どんな挑発にも動じず、

どんな敵を前にしても平常心を失わない。

その姿は木で作られた鶏のように静かであるという。

双葉山は六十九連勝した自分を見ても、

「私はまだその境地に達していない」

と言ったのである。

これほど恐ろしい言葉があるだろうか。

普通の人間なら、

少し成功しただけで自慢したくなる。

少し評価されれば偉くなった気になる。

だが双葉山は違った。

日本一になっても、

まだ未熟だと言った。

私はこの言葉に出会った時、

本当の強さとは何かを考えさせられた。

若い頃の私は強くなりたかった。

大会で勝ちたかった。

人より上になりたかった。

世界大会を目指し、

毎日稽古を続けた。

そして幸運にも世界一になることができた。

しかし年齢を重ねるにつれ、

勝つことよりも大切なものが見えてきた。

脳梗塞を患った。

肝細胞癌で余命半年と告げられた。

両膝も思うように動かない。

若い頃のような組手はもうできない。

だが不思議なことに、

今の方が武道が面白い。

なぜだろう。

それは敵が自分自身になったからだ。

怠けたい心。

諦めたい心。

怒り。

嫉妬。

見栄。

そうした弱い自分と向き合うことこそ、

本当の修行なのだと知った。

双葉山も同じだったのではないだろうか。

六十九連勝の相手は土俵の向こうにいた力士ではない。

己の慢心だった。

己の驕りだった。

だからこそ、

「未だ木鶏たりえず」

という言葉が生まれた。

老境とは衰えることではない。

若さや力を失ったあと、

なお学び続けることである。

私は保護司として少年たちと向き合う。

民生児童委員として地域の子ども達を見守る。

道場では幼い門下生たちが元気に汗を流している。

彼らを見ていると、

人生は死ぬまで勉強だと思う。

まだ知らないことがある。

まだ学ぶことがある。

まだ成長できる。

だから私は今日も稽古をする。

六十五歳になった今も、

双葉山の言葉が胸に響く。

「未だ木鶏たりえず」

本当に強い人ほど、

自分を未熟だと思っている。

本当に偉い人ほど、

自分を修行中だと思っている。

老境とは完成ではない。

人生最後の日まで続く修行なのである。

私もまた、

木鶏にはほど遠い。

だから今日も道着に袖を通す。

押忍。


 
 
 

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