令和の侍――甲野善紀先生
今から十年ほど前のことになる。
「合気道の枠を超えた、凄まじい躰術を使う先生がいる」
そんな話を耳にした。
その名は、甲野善紀先生。
私は早速、先生の著書『表の体育 裏の体育』を手に取った。
最初は、正直なところ興味本位であった。
しかし、読み進めるうちに、ただの武術論ではないことに気づかされた。
そこに書かれていたのは、強さを誇るための武術ではなかった。
人間の身体とは何か。
動くとは何か。
できなかったことが、なぜできるようになるのか。
その根源を、己の身体を通して問い続ける人間の記録であった。
当時の私は、脳梗塞を患った後で、思うように身体が動かなかった。
若い頃のように、力で押し切ることもできない。
踏ん張れば踏ん張るほど、身体は重くなる。
気合いを入れれば入れるほど、動きは固くなる。
私は少しでも体力を取り戻したくて、空手だけでなく、柔術、合気、古武術、あらゆる身体操作を学ぼうとしていた。
そんな時に出会ったのが、甲野先生の武術であった。
先生の武術には、完成形がない。
一つの技を覚えて終わりではない。
昨日できた動きを、今日また疑う。
今日できた技を、明日さらに更新する。
その姿勢に、私は深く心を打たれた。
武術とは、勝つためだけのものではない。
年齢を重ね、病を得て、身体が思い通りにならなくなった時、それでもなお、自分の身体の中に可能性を探し続けること。
それこそが、本当の武術ではないか。
そう思わされたのである。
私は数回、甲野先生のセミナーに参加させていただいた。
そこには、一流の武道家、柔術家、格闘家、研究者たちが集まっていた。
皆、半信半疑の顔をして先生の前に立つ。
しかし、一度手を合わせると、その表情が変わる。
力で倒されたわけではない。
投げ飛ばされたわけでもない。
だが、確かに崩される。
踏ん張ろうとしても踏ん張れない。
押さえようとしても押さえられない。
身体のどこかが、常識の外へ外されてしまう。
しかも、それを行っているのは、自分より一回りも高齢の先生であった。
私はその時、心の底から思った。
これは本物だ、と。
甲野先生は、合気道における「受け」と「攻め」の関係に疑問を持たれたと聞く。
稽古の中で決められた形。
かかることを前提とした受け。
果たしてそれは、本当に武術なのか。
その問いから、先生は独自の武術研究の道へ進まれた。
武術稽古研究会「松聲館」を立ち上げ、日本武術の古伝に学びながらも、単なる復古主義ではなく、現代に生きる身体の可能性を探求し続けられた。
剣術、居合術、槍術、杖術、躰術。
その研究は一つの流派に収まるものではなかった。
「ねじらない」
「捻らない」
「踏ん張らない」
この言葉は、当時の私には衝撃であった。
武道の世界では、踏ん張ることが強さだと思われがちである。
腰を落とせ。
足を張れ。
力を込めろ。
私も長く、そう教え、そう学んできた。
しかし、老いを迎え、病を経験した身体には、その常識が時に重荷となる。
踏ん張れば、固まる。
力めば、遅れる。
捻れば、身体のどこかに無理が出る。
甲野先生の術理は、その反対にあった。
踏ん張らずに動く。
溜めずに動く。
身体を部分で使わず、全体で使う。
そこには、衰えた身体を嘆くのではなく、身体の使い方そのものを問い直す知恵があった。
その知恵は、武術の世界だけに留まらなかった。
読売巨人軍の投手であった桑田真澄選手が、身体操作の学びを通じて復活の道を示したことは、多くの人に知られるところである。
また、介護や福祉の現場においても、甲野先生の身体の使い方は大きな示唆を与えた。
力の弱い人が、力に頼らず人を支える。
介護する側の身体を壊さず、介護される側にも負担をかけない。
これもまた、武術の大切な姿である。
人を倒す術が、人を助ける術になる。
そこに、古武術の深い美しさがある。
私には忘れられない場面がある。
セミナーが終わった後、偶然トイレで甲野先生とお会いした。
私は思い切って言った。
「先生、杖術を学びたいのですが」
すると先生は、少し照れたように笑われた。
「私の杖は、完全に自己流ですから」
その一言が、なぜか今も心に残っている。
普通なら、大家と呼ばれる人ほど、自分の技を大きく見せたがる。
流派を語り、格式を語り、権威を語る。
しかし甲野先生は違った。
自分の術を飾らない。
完成したものとして語らない。
常に途中であり、常に研究中であり、常に昨日の自分を超えようとしている。
その姿こそ、まさに令和の侍であった。
武術家とは、強かった過去に生きる者ではない。
今この瞬間の身体に問い続ける者である。
昨日できなかったことを、今日どうすればできるのか。
今日できたことを、明日どう変えられるのか。
年齢を重ねても、病を得ても、身体が思うように動かなくなっても、なお可能性を探す。
その姿勢こそ、老境の武術である。
私は甲野先生から、技だけを学んだのではない。
老いてなお、変わり続ける勇気を学んだ。
人は年齢とともに、どうしても過去の実績にすがりたくなる。
昔は強かった。
昔は動けた。
昔は勝てた。
しかし本当の武術家は、過去に住まない。
今の身体で、今の自分にできることを探す。
そして、昨日までの常識を静かに壊していく。
甲野善紀先生は、そのことを身をもって示してくださった。
力ではない。
若さでもない。
肩書きでもない。
人間の身体には、まだ知られていない深い可能性がある。
それを信じ、日々一つの動きを更新し続ける。
その後ろ姿に、私は武術家の鏡を見た。
令和の侍。
甲野善紀先生。
先生との出会いは、脳梗塞の後、失いかけていた私の身体への信頼を、もう一度呼び戻してくれた。
老いは終わりではない。
病もまた、敗北ではない。
身体が変わったなら、武術も変わればいい。
動けないなら、動き方を探せばいい。
できないことがあるなら、そこから新しい術が生まれる。
甲野先生の武術は、私にそう教えてくれたのである。
押忍














コメント