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令和の侍――甲野善紀先生

6月30日
読了時間: 5分

今から十年ほど前のことになる。

「合気道の枠を超えた、凄まじい躰術を使う先生がいる」

そんな話を耳にした。

その名は、甲野善紀先生。

私は早速、先生の著書『表の体育 裏の体育』を手に取った。

最初は、正直なところ興味本位であった。

しかし、読み進めるうちに、ただの武術論ではないことに気づかされた。

そこに書かれていたのは、強さを誇るための武術ではなかった。

人間の身体とは何か。

動くとは何か。

できなかったことが、なぜできるようになるのか。

その根源を、己の身体を通して問い続ける人間の記録であった。

当時の私は、脳梗塞を患った後で、思うように身体が動かなかった。

若い頃のように、力で押し切ることもできない。

踏ん張れば踏ん張るほど、身体は重くなる。

気合いを入れれば入れるほど、動きは固くなる。

私は少しでも体力を取り戻したくて、空手だけでなく、柔術、合気、古武術、あらゆる身体操作を学ぼうとしていた。

そんな時に出会ったのが、甲野先生の武術であった。

先生の武術には、完成形がない。

一つの技を覚えて終わりではない。

昨日できた動きを、今日また疑う。

今日できた技を、明日さらに更新する。

その姿勢に、私は深く心を打たれた。

武術とは、勝つためだけのものではない。

年齢を重ね、病を得て、身体が思い通りにならなくなった時、それでもなお、自分の身体の中に可能性を探し続けること。

それこそが、本当の武術ではないか。

そう思わされたのである。

私は数回、甲野先生のセミナーに参加させていただいた。

そこには、一流の武道家、柔術家、格闘家、研究者たちが集まっていた。

皆、半信半疑の顔をして先生の前に立つ。

しかし、一度手を合わせると、その表情が変わる。

力で倒されたわけではない。

投げ飛ばされたわけでもない。

だが、確かに崩される。

踏ん張ろうとしても踏ん張れない。

押さえようとしても押さえられない。

身体のどこかが、常識の外へ外されてしまう。

しかも、それを行っているのは、自分より一回りも高齢の先生であった。

私はその時、心の底から思った。

これは本物だ、と。

甲野先生は、合気道における「受け」と「攻め」の関係に疑問を持たれたと聞く。

稽古の中で決められた形。

かかることを前提とした受け。

果たしてそれは、本当に武術なのか。

その問いから、先生は独自の武術研究の道へ進まれた。

武術稽古研究会「松聲館」を立ち上げ、日本武術の古伝に学びながらも、単なる復古主義ではなく、現代に生きる身体の可能性を探求し続けられた。

剣術、居合術、槍術、杖術、躰術。

その研究は一つの流派に収まるものではなかった。

「ねじらない」

「捻らない」

「踏ん張らない」

この言葉は、当時の私には衝撃であった。

武道の世界では、踏ん張ることが強さだと思われがちである。

腰を落とせ。

足を張れ。

力を込めろ。

私も長く、そう教え、そう学んできた。

しかし、老いを迎え、病を経験した身体には、その常識が時に重荷となる。

踏ん張れば、固まる。

力めば、遅れる。

捻れば、身体のどこかに無理が出る。

甲野先生の術理は、その反対にあった。

踏ん張らずに動く。

溜めずに動く。

身体を部分で使わず、全体で使う。

そこには、衰えた身体を嘆くのではなく、身体の使い方そのものを問い直す知恵があった。

その知恵は、武術の世界だけに留まらなかった。

読売巨人軍の投手であった桑田真澄選手が、身体操作の学びを通じて復活の道を示したことは、多くの人に知られるところである。

また、介護や福祉の現場においても、甲野先生の身体の使い方は大きな示唆を与えた。

力の弱い人が、力に頼らず人を支える。

介護する側の身体を壊さず、介護される側にも負担をかけない。

これもまた、武術の大切な姿である。

人を倒す術が、人を助ける術になる。

そこに、古武術の深い美しさがある。

私には忘れられない場面がある。

セミナーが終わった後、偶然トイレで甲野先生とお会いした。

私は思い切って言った。

「先生、杖術を学びたいのですが」

すると先生は、少し照れたように笑われた。

「私の杖は、完全に自己流ですから」

その一言が、なぜか今も心に残っている。

普通なら、大家と呼ばれる人ほど、自分の技を大きく見せたがる。

流派を語り、格式を語り、権威を語る。

しかし甲野先生は違った。

自分の術を飾らない。

完成したものとして語らない。

常に途中であり、常に研究中であり、常に昨日の自分を超えようとしている。

その姿こそ、まさに令和の侍であった。

武術家とは、強かった過去に生きる者ではない。

今この瞬間の身体に問い続ける者である。

昨日できなかったことを、今日どうすればできるのか。

今日できたことを、明日どう変えられるのか。

年齢を重ねても、病を得ても、身体が思うように動かなくなっても、なお可能性を探す。

その姿勢こそ、老境の武術である。

私は甲野先生から、技だけを学んだのではない。

老いてなお、変わり続ける勇気を学んだ。

人は年齢とともに、どうしても過去の実績にすがりたくなる。

昔は強かった。

昔は動けた。

昔は勝てた。

しかし本当の武術家は、過去に住まない。

今の身体で、今の自分にできることを探す。

そして、昨日までの常識を静かに壊していく。

甲野善紀先生は、そのことを身をもって示してくださった。

力ではない。

若さでもない。

肩書きでもない。

人間の身体には、まだ知られていない深い可能性がある。

それを信じ、日々一つの動きを更新し続ける。

その後ろ姿に、私は武術家の鏡を見た。

令和の侍。

甲野善紀先生。

先生との出会いは、脳梗塞の後、失いかけていた私の身体への信頼を、もう一度呼び戻してくれた。

老いは終わりではない。

病もまた、敗北ではない。

身体が変わったなら、武術も変わればいい。

動けないなら、動き方を探せばいい。

できないことがあるなら、そこから新しい術が生まれる。

甲野先生の武術は、私にそう教えてくれたのである。

押忍

若き日の甲野善紀先生
若き日の甲野善紀先生
数々の技を開拓される
数々の技を開拓される
いつも謙遜と優しい先生
いつも謙遜と優しい先生

 
 
 

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