人生で一番強かった日~世界王者になった日ではなかった~
- 榮一 重松
- 6月7日
- 読了時間: 3分
人生で一番強かった日はいつですか。
そう聞かれたら、
若い頃の私は迷わず答えただろう。
世界空手道選手権で優勝した日だと。
四十五歳。
世界中から集まった強豪たち。
その頂点に立った日。
国旗を背負い、
優勝トロフィーを掲げたあの日。
確かにあの日の私は強かった。
しかし六十五歳になった今、
同じ質問をされたら違う答えをする。
人生で一番強かった日は、
世界王者になった日ではない。
医師から、
「肝細胞癌です」
と告げられた日である。
しかも腫瘍は九センチ近くまで成長していた。
余命半年。
そんな言葉も聞いた。
目の前が真っ暗になるとは、
ああいうことを言うのだろう。
世界一になったことも、
過去の栄光も、
その瞬間には何の意味も持たなかった。
人間は死の前では平等である。
強い者も弱い者もない。
私は静かに病院を出た。
空を見上げた。
そして考えた。
これで終わりなのか、と。
だが次の瞬間、
不思議な気持ちが湧いてきた。
まだ終われない。
道場には子供達がいる。
教えなければならないことがある。
見届けたい成長がある。
伝えたい言葉がある。
私は死ぬわけにはいかない。
その日から私の闘いが始まった。
相手は世界王者でもなければ、
格闘家でもない。
癌という見えない敵だった。
治療の日々。
不安な夜。
弱気になる心。
本当に苦しかった。
しかし私は諦めなかった。
なぜなら武道が教えてくれたからである。
勝負は最後まで分からない。
立ち上がる限り負けではない。
今日も一歩。
明日も一歩。
その積み重ねが人生なのだと。
気が付けば私は生きていた。
余命半年と言われた人間が、
今も道場に立っている。
子供達の前で号令をかけている。
笑っている。
人生とは不思議なものである。
私は今でも世界王者になったことを誇りに思う。
しかし、
人生で一番強かった日は、
トロフィーを掲げた日ではない。
病と向き合い、
死と向き合い、
それでも前を向くことを決めた日である。
本当の強さとは、
相手を倒す力ではない。
絶望の中でも希望を失わない力である。
私は武道を通じて、
そのことを学んだ。
だから今日も道場へ向かう。
両膝は痛む。
身体も若い頃のようには動かない。
それでも歩く。
まだ生かされている意味があると信じているからだ。
人生で一番強かった日。
それは世界王者になった日ではない。
「まだ生きる」と決めた日だったのである。
【次回】
「老境とは衰えることではない」
~六十五歳、今が人生で一番幸せな理由~




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