人は何のために強くなるのか
- 榮一 重松
- 5 日前
- 読了時間: 3分
若い頃の私は強くなりたかった。
誰よりも強く。
誰にも負けないほど強く。
試合に勝ちたい。
ライバルを倒したい。
世界一になりたい。
拳を握る理由は単純だった。
強さとは勝利だと思っていたのである。
しかし六十五年生きてきた今、私は思う。
人は本当に勝つためだけに強くなるのだろうか。
私が空手を始めた頃、強い人間とは喧嘩に勝つ人だと思っていた。
試合で優勝する人だと思っていた。
実際、私は世界選手権で優勝した。
多くの大会で勝利を重ねた。
夢だった世界一にもなった。
だが不思議なことに、その瞬間に人生の答えはなかった。
優勝トロフィーを手にしても、
人生の苦しみは終わらなかった。
四十代で右腕を骨折した。
五十代で脳梗塞になった。
六十代で肝細胞癌を宣告された。
余命半年と言われた。
人生は試合よりもはるかに厳しい相手を用意していた。
どんなに強い蹴りも、
どんなに鋭い突きも、
病気には通用しない。
その時私は初めて知った。
本当の敵は他人ではない。
絶望である。
恐怖である。
諦めである。
病院のベッドで考えた。
強さとは何なのだろう。
勝利とは何なのだろう。
世界チャンピオンであっても病気になる。
八段であっても老いる。
誰も時間には勝てない。
ならば人は何のために強くなるのか。
その答えは道場にあった。
泣きながら立ち上がる少年。
試合に負けても次の日に稽古へ来る少女。
仕事に疲れていても汗を流しに来る父親。
家事を終えて稽古に来る母親。
彼らは皆、誰かを倒すために来ているのではない。
自分に負けないために来ているのである。
人は弱い。
迷う。
怖がる。
傷つく。
それが人間だ。
だから強くなろうとする。
強さとは弱さを消すことではない。
弱さを抱えたまま前へ進む勇気なのである。
若い頃、私は拳で強くなろうとした。
老いた今、心で強くなろうとしている。
怒りを抑える強さ。
許す強さ。
感謝する強さ。
涙を流せる強さ。
「ありがとう」と言える強さ。
こちらの方が遥かに難しい。
保護司として少年達と向き合う時がある。
民生委員として困っている人の話を聞く時がある。
そこで思う。
本当に強い人とは、
人を倒した人ではない。
人を支えられる人である。
宮本武蔵は剣を極めた。
だが晩年に残したのは勝敗の記録ではない。
五輪書という生き方の哲学だった。
双葉山は六十九連勝した。
だが晩年に語ったのは、
「未だ木鶏たりえず」
という自らの未熟さだった。
達人たちは皆、最後に同じ場所へ辿り着く。
強さの先にある優しさである。
今の私は若い頃ほど速く動けない。
重いものも持てない。
膝も痛む。
だが若い頃より強くなったと思う。
なぜなら、
人生の苦しみから逃げなくなったからだ。
人は何のために強くなるのか。
それは人を傷つけるためではない。
人を守るためである。
人生に負けないためである。
家族を守るためである。
仲間を支えるためである。
そして最後には、
自分自身を許すためである。
強さとは拳ではない。
肩書きでもない。
地位でもない。
強さとは、
何度倒されても立ち上がる心である。
私はそう信じている。
老境に入った今だからこそ、
胸を張ってそう言える。
人は何のために強くなるのか。
それは、
誰かを守れる優しい人間になるためなのである。
押忍。




コメント