top of page

人は何のために強くなるのか

若い頃の私は強くなりたかった。

誰よりも強く。

誰にも負けないほど強く。

試合に勝ちたい。

ライバルを倒したい。

世界一になりたい。

拳を握る理由は単純だった。

強さとは勝利だと思っていたのである。

しかし六十五年生きてきた今、私は思う。

人は本当に勝つためだけに強くなるのだろうか。

私が空手を始めた頃、強い人間とは喧嘩に勝つ人だと思っていた。

試合で優勝する人だと思っていた。

実際、私は世界選手権で優勝した。

多くの大会で勝利を重ねた。

夢だった世界一にもなった。

だが不思議なことに、その瞬間に人生の答えはなかった。

優勝トロフィーを手にしても、

人生の苦しみは終わらなかった。

四十代で右腕を骨折した。

五十代で脳梗塞になった。

六十代で肝細胞癌を宣告された。

余命半年と言われた。

人生は試合よりもはるかに厳しい相手を用意していた。

どんなに強い蹴りも、

どんなに鋭い突きも、

病気には通用しない。

その時私は初めて知った。

本当の敵は他人ではない。

絶望である。

恐怖である。

諦めである。

病院のベッドで考えた。

強さとは何なのだろう。

勝利とは何なのだろう。

世界チャンピオンであっても病気になる。

八段であっても老いる。

誰も時間には勝てない。

ならば人は何のために強くなるのか。

その答えは道場にあった。

泣きながら立ち上がる少年。

試合に負けても次の日に稽古へ来る少女。

仕事に疲れていても汗を流しに来る父親。

家事を終えて稽古に来る母親。

彼らは皆、誰かを倒すために来ているのではない。

自分に負けないために来ているのである。

人は弱い。

迷う。

怖がる。

傷つく。

それが人間だ。

だから強くなろうとする。

強さとは弱さを消すことではない。

弱さを抱えたまま前へ進む勇気なのである。

若い頃、私は拳で強くなろうとした。

老いた今、心で強くなろうとしている。

怒りを抑える強さ。

許す強さ。

感謝する強さ。

涙を流せる強さ。

「ありがとう」と言える強さ。

こちらの方が遥かに難しい。

保護司として少年達と向き合う時がある。

民生委員として困っている人の話を聞く時がある。

そこで思う。

本当に強い人とは、

人を倒した人ではない。

人を支えられる人である。

宮本武蔵は剣を極めた。

だが晩年に残したのは勝敗の記録ではない。

五輪書という生き方の哲学だった。

双葉山は六十九連勝した。

だが晩年に語ったのは、

「未だ木鶏たりえず」

という自らの未熟さだった。

達人たちは皆、最後に同じ場所へ辿り着く。

強さの先にある優しさである。

今の私は若い頃ほど速く動けない。

重いものも持てない。

膝も痛む。

だが若い頃より強くなったと思う。

なぜなら、

人生の苦しみから逃げなくなったからだ。

人は何のために強くなるのか。

それは人を傷つけるためではない。

人を守るためである。

人生に負けないためである。

家族を守るためである。

仲間を支えるためである。

そして最後には、

自分自身を許すためである。

強さとは拳ではない。

肩書きでもない。

地位でもない。

強さとは、

何度倒されても立ち上がる心である。

私はそう信じている。

老境に入った今だからこそ、

胸を張ってそう言える。

人は何のために強くなるのか。

それは、

誰かを守れる優しい人間になるためなのである。

押忍。


 
 
 

最新記事

すべて表示
人生の師は道場の外にいた

老境の武道 第九章 若い頃の私は、強い人ばかりを追いかけていた。 大山倍達総裁の伝説に胸を躍らせ、極真の猛者たちに憧れ、世界の強豪たちと拳を交えた。 強くなりたかった。 誰よりも強く。 そのために稽古を重ね、血を流し、骨を折り、負ければ悔し涙を流した。 人生の師とは、道場の中にいるものだと思っていた。 しかし六十五年生きてみて分かった。 本当の師は、道場の外にいたのである。 保護司になった時だった

 
 
 

コメント


bottom of page