【次回】「押忍の本当の意味」 ~六十五年かかって辿り着いた答え~
- 榮一 重松
- 6月7日
- 読了時間: 2分
私は人生で何回、
「押忍」
と言っただろう。
数え切れない。
道場に入る時も押忍。
稽古中も押忍。
先輩に対しても押忍。
試合の時も押忍。
武道家にとって押忍は空気のようなものだった。
若い頃の私は、
押忍とは気合だと思っていた。
強さの象徴だと思っていた。
辛くても耐えること。
苦しくても前へ出ること。
それが押忍だと思っていた。
だから歯を食いしばった。
痛みに耐えた。
負けたくない一心で突き進んだ。
しかし人生は、
私に別の意味を教えた。
五十歳で脳梗塞になった。
六十歳で肝細胞癌になった。
余命半年とも言われた。
両膝も壊れた。
若い頃なら、
そんな自分を認められなかったかもしれない。
強くなければ価値がないと思っていたからだ。
だが老境に入り、
私は初めて知った。
押忍とは、
強がることではない。
現実を受け入れることなのだと。
病気になった自分を受け入れる。
老いた身体を受け入れる。
失敗した自分を受け入れる。
そしてそれでも前を向く。
それが押忍なのだ。
民生委員として、
私は多くの人と出会った。
孤独に苦しむ高齢者。
生活に困る人。
誰にも相談できず涙を流す人。
保護司としては、
人生を踏み外した若者達とも向き合った。
その時に気付いた。
本当に強い人は、
大きな声で押忍と言う人ではない。
苦しい人生を背負いながらも、
今日を生きようとする人である。
誰にも見えない場所で、
必死に頑張っている人である。
その姿こそが押忍なのだ。
若い頃、
私は押忍を気合の言葉だと思っていた。
六十五歳になった今、
押忍は感謝の言葉だと思っている。
生かされていることへの感謝。
支えてくれた人への感謝。
今日も道場に立てることへの感謝。
そして、
また明日を迎えられることへの感謝。
押忍。
その二文字の中には、
人生そのものが詰まっている。
耐えることも。
挑戦することも。
感謝することも。
許すことも。
愛することも。
すべて含まれている。
私は六十五年かかって、
ようやくその意味に辿り着いた。
だから今日も道場で、
子供達と一緒に声を出す。
押忍。
それは気合ではない。
人生への感謝なのである。
【最終章】
「老境の武道」
~人生最後の日まで私は修行者でありたい~



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