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1. 老いた拳に宿るもの

~なぜ私は今も武道を続けているのか~

若い頃の私は、自分の拳が永遠に強いものだと思っていた。

試合に勝つこと。相手を倒すこと。人より強くなること。

それが武道だと信じていた。

しかし人生は、そんな私に何度も問いを投げかけた。

「お前の強さとは何だ」

と。

最初の試練は四十代だった。

稽古中、私は右腕を骨折した。

武道家にとって腕は命である。

思うように動かない腕を見ながら、私は初めて自分の肉体が永遠ではないことを知った。

若い頃は怪我をしてもすぐ治った。

だが年齢を重ねると回復は遅くなる。

焦りもあった。

不安もあった。

それでも私は道場へ足を運び続けた。

拳が使えないなら足を鍛えた。

足が疲れたら心を鍛えた。

武道は私に教えてくれた。

「失ったものを嘆くより、残されたものを磨け」

と。

次の試練は五十代だった。

突然、脳梗塞に襲われた。

病院の白い天井を見上げながら、

「もしこのまま身体が動かなくなったら」

そんな恐怖に包まれた。

世界大会で優勝した私も、空手八段の私も、

病気の前では一人の無力な人間だった。

一週間の入院。

幸い大きな後遺症は残らなかった。

だが、あの日ほど命の有り難さを感じたことはない。

歩けること。

走れること。

拳を握れること。

それは当たり前ではなかった。

武道を続けてきたからこそ、

諦めなかった。

「もう一度立つ」

ただその一念で私は稽古場へ戻った。

そして六十代。

人生最大の試練が訪れる。

肝細胞癌。

腫瘍は九センチ。

腫瘍マーカーは六千を超えていた。

医師から説明を受けた時、

私は静かに死を意識した。

どれほど強い人間も、いつかは命の終わりを迎える。

それが現実だった。

塞栓術を受けながら、

私は何度も考えた。

「武道とは何だったのか」

若い頃は勝つためだった。

中年では自分を鍛えるためだった。

だが老境に入った今、

その答えは変わった。

武道とは、

生きるための道だった。

苦しい時に逃げないため。

絶望の中でも希望を捨てないため。

倒れても立ち上がるため。

武道は相手を倒す技術ではなく、

自分自身に負けないための修行だったのである。

六十五歳になった今、

若い頃のようなスピードはない。

怪我の治りも遅い。

疲労の回復にも時間がかかる。

だが不思議なことに、

心は若い頃よりも強くなった。

骨折が教えてくれた。

脳梗塞が教えてくれた。

癌が教えてくれた。

人間の本当の強さは、拳の強さではない。

何度倒れても、立ち上がる心の強さである。

私は今も道場に立つ。

子どもたちに技を教えながら、

人生を教わっている。

老いた拳には若さはない。

だが、

その拳には人生が宿っている。

痛みも、

苦しみも、

敗北も、

病も、

すべてを抱えてなお前に進む力が宿っている。

だから私は今日も稽古をする。

人生最後の日まで。

修行者として。

武道家として。

そして、一人の人間として。

老いた拳に宿るもの。

それは技ではない。

それは、生き抜いてきた人生そのものである。

 
 
 

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